Gwangju National Museum
역사와 문화가 살아숨쉬는 국립광주박물관石燈は、仏の光明を象徴することから光明燈とも言われ、主に大雄殿や塔などの重要な建築物の前に置かれる。一般的に、火を灯す火舎石(火袋)を中心に、下部に3段の台石(中台・竿・基礎)、上部に笠と宝珠がある。この石燈は、蓮花の反花の上にある竿が二匹の獅子になっているのが特徴である。二匹の獅子が後ろ脚で立ち、胸を突き合わせた体勢で中台を支えている。写実的でありながらも自然に表現されていることから、高く注目されている。八角形の火舎石(火袋)には窓(火口)が4ヶ所あり、笠の八隅の軒先が上に跳ね上がっていて、美しく表現されている。装飾は煩雑ではなく、簡潔でありながらも写実的な手法が際立つ統一新羅時代の作品で、規模も大き過ぎず、優れた彫刻技法と美しい造形美が見られる傑作といえる。元来は中興山城内にあったが、日本人が無断で搬出しようと景福宮に移転させたものが、現在国立光州博物館に展示されている。
詳細全羅南道和順郡大谷里にある栄山江の丘陵で発見された青銅器時代の遺跡の墓から出土した遺物である。 出土した青銅器遺物のうち、細形銅剣(青銅剣)3点、青銅八珠鈴2点、青銅双頭鈴2点、青銅刀子(青銅削具)1点、青銅斧(青銅銎斧)1点、多紐細文鏡(青銅細文鏡)2点が国宝に指定された。
細形銅剣は、左右両側に刃のある両刃で、そのうちの1点は刃の部分が損傷している。銅剣の中央に太く突き出た茎が銅剣ごとに異なるのが特徴で、韓国で出土する銅剣の中では後代の方である。青銅八珠鈴は、八角形の星形をしており、八隅に鈴がついている。その中に鈴子を入れて振ると音が出る仕組みになっており、呪術的・宗教的儀式用の道具と推定される。鈴の表面には、ゼンマイのような模様が刻まれている。青銅双頭鈴は、両端に鈴がついており、八珠鈴同様その中に鈴子を入れて振ると音が出る。呪術的・宗教的儀式用の道具と推定される。青銅刀子は、工具の一種で、現代の彫刻刀に通じる。表面は平らで、刃の先が一部欠けている。 青銅斧は、片刃式の斧で、反対側に柄がつけられるように溝が掘られている。溝が掘られている方には肩があり、幅に対して長さが短い。多紐細文鏡は、鏡面はサビついてるが状態は良好であり、鏡の裏面には幾何学紋様と紐を通す鈕が2個付いている。大谷里で出土した各青銅遺物は、種類も多く製作技法が優れているため、韓国の青銅器時代を代表する一括遺物として、当時の金属工芸における技術水準が高かったことを見せている。
手で火種に点火・発火する有筒式火砲は、その大きさと使用される火薬の量、発射距離によって4つに分類され、千字文からその名をとって「天・地・玄・黄字銃筒」と呼ばれたが、これはこのうち3番目に大きい重火器に該当する。この銃筒は、1992年に全羅南道麗川市白島周辺の海底で、地字銃筒、別勝字銃筒とともに引き揚げられたもので、銃のサイズは、口径6.5cm、全長75.8cmからなる。銃身には「梁内了同」という製作者の氏名が記されており、この人物は「嘉靖乙卯銘天字銃筒(宝物647号)」を製作した人物でもあることから、この銃筒の製作時期も朝鮮明宗10年(1555年)頃であると推定できる。現在残っている7基の玄字銃筒のうち最も古いもので、記録も残されており、状態も良好であることから、火砲師研究のみならず国防技術文化財としても、貴重な資料として評価されている。
詳細金銅阿弥陀如来三尊坐像は、観音と地蔵からなる阿弥陀三尊仏の形式や、角ばった地蔵菩薩像の頭巾の表現など、朝鮮前期15世紀頃の特徴を表しており、これは1468年という制作時期とも符合する。一方、仏龕は、塔から流出したため任意で修理されており、完全な状態ではない。しかし、仏龕の中に仏像を安置した場合、その規格が適合且つ篆刻型仏龕という形式的な特徴から、1468年という仏像の制作時期とも符合し、屋根の曲線や構造などにおいて独特な特徴を見せる作品である。従って、順天梅谷洞の金銅阿弥陀如来三尊坐像と青銅仏龕は、発願文から正確な制作年度が明らかになり、15世紀の仏像と仏龕の特徴をよく表している貴重な作品である。これまでに類を見ない独特な特徴を見せる仏龕の形式などからその価値は高い。
詳細この墓誌は李先斉(1390-1453)の生没年や行跡、家系について記した248文字が象嵌技法によって刻まれています。1998年に国外に持ち出され、2014年に国外所在文化財財団の努力により所在が確認されました。そして2017年、等々力邦枝さんが、韓国美術を愛し、韓日両国の友好促進を願った所蔵者の遺志を受け継いでこの墓誌を寄贈しました。
李先斉は学術官僚として集賢殿に務めながら『高麗史』『太宗実録』『神農本草』の編纂に参加し、その後、江原道観察使や戸曹参判などを歴任しました。湖南地方を代表する人物で、一時「光山県」と改称された現在の光州広域市が「光州牧」という名前を取り戻した後に喜びの気持ちを込めて当時完成した楼閣を「喜慶楼」と名づけたほど光州を愛していたと知られていますが、生没年さえ明らかにされていませんでした。それは、彼の5代目子孫・李潑(1544-1589)とその一家が、1589年(宣祖22)の己丑獄事に巻き込まれて悲惨な死を遂げたからです。このとき、すでに亡くなっていた李先斉の官職が取り上げられ、著述も焼失し、彼に関する記録は実録にしか残っていませんでしたが、この墓誌が見つかったことで李先斉の生没年が明らかになりました。
このため、この墓誌は李先斉の生涯や子孫について伝える重要な記録となっています。
光州広域市には畢門・李先斉の不祧廟(光州広域市民俗資料第7号)が残っているほか、彼の志を称える「畢門路」という通りがあります。